お金持ちになる方法研究会(金方研)

お金持ちになると決めて早5年。実際にお金持ちになる道を突き進みながら日々思ったこと・勉強になったことを綴る密着ライブブログ!

カテゴリ: 名言

俺が集めている漫画の一つに週刊少年ジャンプに連載されている「アイシールド21」がある。

私立泥門(でいもん)高等学校に通う気弱な高校生、小早川瀬那は入学早々ひょんな事から泥門高校アメフト部「泥門デビルバッツ」に主務として入ることになった。

その帰り道、彼をパシリにしていた不良たちに絡まれ、逃れるために泥門駅まで爆走して駆け込み乗車をした。それを目撃したアメフト部主将ヒル魔に翌日強制的に選手にされ、唯一の取り柄である俊足で選手登録名「アイシールド21」として春大会を戦うことになる。


それから猛特訓を経て、秋季東京大会を勝ち上がり、そして全国大会決勝(クリスマスボウル)出場を仲間達と共に目指していく。



要するにアメフトを題材とした青春スポーツ漫画だ。


俺は単行本を集めているが、その中のコラム欄(よく漫画の話と話の間にある作者のお遊びページ的なもの)にイイ言葉が載っていたので紹介することにする。


「ダレル・ロイヤルの手紙」というものだ。


テキサス大アメフト部の名コーチ、ダレル ロイヤルが夏休み帰省中の選手達に送った手紙らしい。闘争心とフットボールへの愛情が表れた名文である。




↓  ↓  ↓


親愛なるロングホーン諸君。

打ち負かされる事自体は、何も恥じるべき事ではない。

打ち負かされたまま、立ち上がろうとせずにいる事が恥ずぺき事なのである。

ここに、人生で数多くの敗北を経験しながらも、その敗北から、はいあがる勇気を持ち続けた、偉大な男の歴史を紹介しよう。



1832年 失業

1832年 州議選に落選

1833年 事業倒産

1834年 州議会議員に当選

1835年 婚約者死亡

1836年 神経衰弱罹病

1838年 州議会議長落選

1845年 下院議員指名投票で敗北

1846年 下院議員当選

1848年 下院議員再選ならず

1849年 国土庁調査官を拒否される

1854年 上院議員落選

1856年 副大統領指名投票で敗北

1858年 上院議員、再度落選

そして1860年、彼は米国大統領に選出された。


彼の名前はエイブラハム・リンカーンと言った。




諸君も三軍でシーズンをむかえ、六軍に落ちる事があるかもしれない。

一軍で始まり、四軍となるかもしれない。

諸君が常に自問自答すべき事は、打ちのめされた後、自分は何をしようとしているのか、という事である。

不平を言って情けなく思うだけか、それとも闘志を燃やし再び立ち向かっていくのか、ということである。

今秋、競技場でプレーする諸君の誰もが、必ず一度や二度の屈辱を味わうだろう。



今まで打ちのめされた事がない選手など、かつて存在したことはない。


ただし、


一流選手はあらゆる努力を払い、速やかに立ち上がろうと努める。



並の選手は立ち上がるのが少しばかり遅い。



そして敗者はいつまでもグラウンドに横たわったままである。






本当にいい文章だ。


俺には特に心に響く。


なぜなら、この文自体が俺の人生を現しているからだ。


この文を読むたびに自分のこれまでの人生を思い出す。




自己の運動神経の無さに愕然とした中学時代。


人間の本性の愚かさ・醜さを知り、己にもあることを悟った高校時代。


人間としての「核」を持ちきれない己に業を煮やした大学1,2年時。



自分は人より考えすぎる癖のせいか、いつも悩んだ上で必要以上に自分を貶めることがあった。



「自分はなぜ才能の無い男なのだ?」


「自分はなぜこうも男気が無い男なのか?」


「自分はなぜこうも何一つ結果を残しきれないのか?」



常に「できない自分」を蔑視してきた。



しかし、今考えてみれば、当時の自分でも凄いなと思えるところがあった。




「執念」である。




トラブルにぶつかることは誰にでもある。


今その場で解けないトラブルや弱点もあるだろう。というか、そっちの方が遥かに多い。


無数にあるそんな障害に対して俺は「あきらめる」という選択肢を持ったことがなかった。



肉体が貧相なことを悟っても「絶対いずれはパワーのある男になる」と誓い、



成績の悪さをを知ったなら、打ちひしがれても必ず「来年には第一志望に受かってやる」と思い、



自分の性格の悪さを知ったなら、「必ず器の大きい男になる」と決めて、それを疑わなかった。



この過程で何度打ちのめされたことだろうか。


今の俺しか知らない者には想像できないであろうが、俺はかなり考え込むタイプであり、ネガティブ思考の持ち主だった。


他の人が「これくらいいいか」というところで、俺は「なぜ俺はこんなこともできないのか」と嘆き、自分を責め、軽蔑した。



外面はギャグばっかり言ってるお調子者だったが、内心はひどく荒れていた。


だから、「お前は気楽でいいね」と言われた時には、何度もそいつの顔をボコボコにしてやろうかと思った。



・・何も知らないくせに。


・・・俺が毎日どれだけ考え、悩んでいることさえ知らないくせに!



・・・・そんな口を聞くなっっ!





・・・とこんな青年時代を過ごしてきたのだが、その執念によって少しづつ自分の望みが叶う、要するに成長していった。



しかし、成長するのが遅かった。ちょびちょびずーっと続けるのは得意だが、何か足りない。


そう思っていた。


そして、気づいた原因が「感情の揺れ」だった。


自分を成長させようとすると、現実との摩擦が生じるが、そのたびに俺はヘコんだりイラついていたりした。

そして、その気分が治るまで時間がかかっていた。

一度イラついたりヘコんだりすると一週間続く時もあった。


感情が揺れると作業に支障が出る。集中できなくなる。


だから、その作業から得られるものが得られなくなる。


結果、成長するのに時間がかかる。


感情の起伏がどれほど成長に障害をもたらすか。


感情の起伏が持つ、その多大な影響力に俺は当時薄々気づいていた。




感情を揺らさないように、そして冷静に物事に対処するためにはどうすればよいか。



それを四六時中考えていた。



その方法がわかって、成長率を倍化させたのは大学一年生の頃だった。




当時俺は居酒屋でバイトをしていたが、その日もシフトに入っていた。



そこで、俺はなんとなくぼんやりと料理長の包丁捌きを見ていた。


料理長はいまどき珍しい江戸っ子気質だった。


「てやんでい!!」という言葉はまさにこの人のためにあると思った。


バイト全員恐れていたが、俺は恐れながらもその男前な気質、有無を言わせない料理の技術に敬意を抱いていた。


料理長の包丁捌きは異常だ。


キッチンにいるほかの人が魚を捌いているのと比べると天地ほどの差がある。


それが副料理長であっても、だ。


一匹の魚を水槽から取ってきて、まな板の上にドンと置く。


その瞬間、料理長によるショーの幕が上がる。


失敗の恐れも何も無く、自分が切りたいように切っているように見えるのに、できた刺身は鳥肌が立つほど、きれいで、見る人を感動させるような盛り付けまであしらえる。


その包丁捌きを見つつ、


「やっぱ、達人は違う。俺もあんぐらい早く“立ち直りの達人”になりたいもんだなぁ。けど、性格は包丁技術の鍛錬とは違うし・・。どう努力すればよいものか・・・」



とぼうっと、自分とはかけ離れたもののように眺めていた。



その刹那。





「違う!!!」




という叫びが脳内に起こった。



その次の瞬間、俺の脳みそが独り言を高速で言い出した。




「料理長はなぜあんなに早く、そして一回の間違いも無く、魚を捌ける?生まれたときから達人だったのか?
 
そんなバカな話はない!!

そうさ。料理長は才能ももちろんあったかもしれないが、そんなのは微々たるもの!努力、・・・努力なんだ!!

では、どのような努力なのか?

それは『より早く、より正確に』をモットーとして、何十年も努力してきたに違いない!!

一日やっても0.000001秒しか早くならないかもしれない。

また、昨日よりも一枚綺麗な刺身ができただけかもしれない!!

だが!!

“微々たる”努力かもしれないが!!!

それを休むことなく、常に続けてきた“積み重ね”が今の料理長を形づくっているんだ!!


ああ、それはわかっているさ。俺も筋トレで“積み重ね”が必要なことは知っている。


でも、性格は違うだろう。技術うんぬんとは鍛え方が違う・・・・・・・・





いや、この考え方が間違っているんだ!!!!!




性格も包丁捌きの練習と同じに違いない!!!!!





どれだけがんばっても性格が0.000001mmぐらいしか上方向に行かないかもしれない。


だが、どれだけがんばったかに係わらず、0.0000001mmでも上方向に行けばいいじゃないか!!


その積み重ねを気の遠くなるほどの長期間でもいい。最後まで続けてやる。


「ウサギとカメ」のカメのように。

そうすれば性格の要素に関係する“感情の起伏”も絶対達人という境地に行けるはず!!!!


俺は・・・・・・・・・・あきらめないっっ!!!!」







よく俗世間では「性格は生まれつきだから」「性格だけは変わらない」と言われる。


「感情の起伏」もその部類に入るだろう。


「怒りやすい」「気落ちしやすい」という言葉があるように感情の起伏の仕方も性格の一つとして見られている。


性格は鍛えられるようなものでもないし、努力の仕様がない。



そう思っていたが、この悟りによって、「感情の起伏の修練も包丁捌きの修練も同じ」という認識に至り、少しでも感情の起伏を無くそうという努力に走って、毎日毎日頑張れるようになった。


性格を変えようとする努力の成果は確かに数値で図りづらいし、目に見えにくい。



しかし、「感情の起伏の修練も包丁捌きの修練も同じ」という認識を変えた時からどんどん俺は変わっていった。




一週間ヘコんでいたのが四日間に。



四日間ヘコんでいたのが一日間に。



一日間ヘコんでいたのが12時間に。




このように徐々に短くしていき、今ではへこむ時間は30分もない。



まあ、まだまだだがwwwwwwww


そもそもヘコんだり、イラついたりすることがなくなってきた。



そして、すべてがうまくいくようになった。



まことに立ち直りが早いというのは恐ろしいことよ。


これによって、俺はどれだけの利益を得たかしれない。



だから、この名言にのっている基準がどうかは知らないが昔の俺が今の俺を見たら、一流の人間だと思うだろう。



これからもずっと、俺は常に立ち直りの早さを研究し続け、成長し続ける。


5年後の目標は「ヘコみ時間30秒」だ。



そして、感情の起伏に悩んでいる諸君。



感情の起伏は直せる。


毎日毎日の努力が必ず君の感情、または性格を高みまで持ちあげる。


「性格だし」と言わずに辛抱強く頑張ってほしい。


まずは「感情に起伏を直す」と決めて、疑わないこと。


その想いが実ったとき、周りに君を慕う人間がたくさんいることに気づくはずだ。



お互いよい人生を!!!!!!


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名言を書くのも久しぶりか・・・・。


「証拠なくして断定無し」(小泉信三)


戦後の保守的自由主義の代表格、小泉信三氏がその著書「共産主義批判の常識」のまえがきでのべた文の中の言葉である。

要約するなら、

「相手に対して批判をしたいときは相手に明確な間違いがあるかどうか確認せよ。相手の間違いやその証拠もしっかり見つけられてないのに、批判をするのは論外であり、批判にもならない」


という意味である。今回はその言葉にちなんである漫画の話から証拠も無く、相手の行動を感情的に非難することの愚かしさと危険性を明らかにしよう。


では。
↓  ↓


「早く行って彼らを呼び止めて!」

「バカな・・・あいつらがどれだけの事を・・・」

「このまま別れたらきっと一生後悔する!せっかく出会った掛け替えのない親友を・・・私たちシャンディアの大恩人を一生傷つけたままにしてしまう!」



今回の話題は集英社の漫画、ご存知「ONE PIECE」からである。今回の教訓を学んだシーンを説明するためにはこの場面にかかわるエピソード全てを説明せねばなるまい。


(あらすじ)大海賊時代に生まれ、海賊に憧れる少年モンキー・D・ルフィは、「ゴムゴムの実」と呼ばれる不思議な実(「悪魔の実」の一種)を食べてゴム人間となり、カナヅチ体質になりながらも海賊王となる為に仲間と共に冒険する。

時はルフィたちが活躍している時代より400年前。

とある海原に船が漂っている。

それはルブニール王国という一国の探検船だった。

その探検船の船長はモンブラン・ノーランドと言った。


ノーランドは国を代表する屈指の探検家だった。そんなある日、またもや未踏の海で探検をしていたノーランドは嵐の中、心が洗われるような「鐘の音」に導かれ、未踏の島とその地の部族「シャンディア」と出会うことになる。


新たな島の発見を喜ぶノーランドたちであったが、その種族は「滅亡寸前」だった。

得体の知れない病が流行っており、一人また一人と病で倒れていくのが日常茶飯事になっていた。

彼らシャンディアには科学という概念がなく、全てはその地に存在する神の所業とする土俗信仰によって解釈していた。


「神が、神がお怒りなのだ!生贄を捧げよ」


彼らの解決法はこれしか思い浮かばなかった。


そんなところにやってきたのが進歩した文明を持つノーランドたち。

彼らはこの「神の怒り」が疫病であることを看破し、彼らの文明で開発されていた疫病に対する特効薬を急いで作りだすことで、村を疫病から救った。


感謝され、村の人たちともこれ以上にないほど仲良くなったノーランドたちは村人たちの勧めもあって、新種の植物の発見も兼ねて、一ヶ月滞在させてもらうことになった。


ところが一ヵ月後のある日。森林調査から帰ってきたノーランドたちを迎えたのは村人たちの白い目と罵声だった。


「ねえ・・・・あんたたちいつこの島から出て行くの?早く出てってくれないかな」



当惑するノーランドたち。


一体どうして村人たちはこんな態度を?



そうこうして、急激に冷え切ってしまった関係のまま、ノーランドたちの帰還の一日前になった。

その晩、村人の一人がノーランドのもとへやってきた。

やはりこのまま何も理由を説明せずに別れるのは気が引けるということで、村人が怒った理由を話しに来たのだ。

その理由は「シャンディアの聖域を汚した」ということだった。

ノーランドたちは探検をする中で、どうしてもある理由から森林の一部を伐採せねばならなかったのだが、その伐採した森林がマズかった。

その森林は「先祖の霊がこの島に戻ってくる時に宿る身縒木(みよりぎ)」。

この島でなくなった過去数百年の先祖達の魂がその身を宿すという神聖な木々で、先祖を神のように尊敬するシャンディアにとって、その身縒木は命と同等の価値を有するものだった。

植物学程度で他人の歴史を壊す人間には触れ合いたくない。そういう怒りだったのだ。

その話を聞いた船員は納得して嘆息を漏らしながらも、代わりにノーランドたちの「森林を伐採しなければならなかった理由」を語った。

実はこの村を襲った疫病は木から人へ、人から木へ感染してともすれば一つの島を滅亡させるほどの疫病だった。

そして、悲しいことに「見縒木」はもう既に手遅れであり、このまま放っておくと島を滅ぼしてしまうもの、まさに「悪霊」となっていた。

シャンディアの身を案じたノーランドたちはその森林を伐採した・・・・と、こういうわけである。

ノーランドたちの行動の理由とシャンディアへの愛情を知った村人の一人は全速力で村へ駆け戻る。

自分たちがいつも「私たちの先祖を守る」「私たちの村を守る」「私たちの・・・」と自分たちの何かが壊れることを騒ぐばかりだったことを恥じ、そして相手の気持ちを推し量ろうとしなかった、

その「人間としての未熟さ」を恥じながら。そして、辿り着いた瞬間、力の限り彼女は叫ぶ。


「早く行って彼らを呼び止めて謝って!」



私たちも常日頃生活をしている中で人間関係の場において悩んだり、いらいらしたりすることがたくさんあるだろう。そのようなときというのはよく考えてみれば、自分のことだけ考えていることが多い。

「俺のプライドを傷つけやがって、アイツむかつく」

「あの子のいっていること、(私には)キツ過ぎるのよ」


しかし、そのような不満を言うときに、相手がどんな気持ちでその言葉を伝えたのか、どうしてそのような行動をとったのかしっかり考えられているだろうか。


その行動や言葉など「目に見えるもの、耳に入ってくるもの」だけを勝手に主観的に捉えているだけになってないだろうか。


科学が発達してないとか、特効薬が作れない文明にいる人たちを未開人というのではない。

自分の気持ちが害されるかどうかだけを基準にして、相手の思いやりを感知しようともしない人間のことを真の「未開人」と言うのではないだろうか。


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「星をつかもうと手を伸ばしても、なかなかつかめないかもしれない。でも、星をつかもうとして、泥をつかまされることはありません」

(Leo Burnett)

要するに、高い次元の目標を持てば、それにあわせて結果もいいものがついてくる、というわけだ。


先日の記事「圧倒的な努力」と同じようなことであるが、要はいちいち自分の夢の邪魔を自分でしないことである。

昔は自分もそうだったが、「自分にこんなことは無理」と最初から諦めて「このくらいでいいや」という甘い目標を立てたときに限って、へぼい結果が出たものである。


逆に自分に無理な課題を自分で設定したときにこそ、自分の最大出力が上がるものである。


筋トレの原理を考えてみても一目瞭然である。

筋力トレーニングでは自分が簡単に達成できるセットメニューをこなしていたところで、決して最大筋力は上がらない。

自分が達成できるか達成できないかの瀬戸際までやらないと確実に最大筋力
は上がらない。


人の行動は目標以上の行動をとることはできない。



目標とは自分で自分の枠をつくることである。


目標が小さいとはそれだけ行動範囲が狭いということである。




たとえば、今、ここに高校で野球をしているAくんとBくんがいるとしよう。

彼らは今は同じ実力であるが、抱いている目標が違う。


Aくんは「必ず甲子園で優勝するぞ!」と意気込み、


Bくんは「まあ、県大会まで出られれば十分だ」と決めていたとしたら。


三年後、どっちがうえの実力を持っているか、タコが見てもイカが見ても明らかである。


目標が違えば、行動をした時に感じることも違ってくる。

素振りを300回しても


Aくんは「このくらいではまだまだ足りない」と思うだろうし、


Bくんは「このくらいでいいだろう」と思う。


要するに、意識が違えば、練習内容も違ってくるのである。



高校野球の話でわかりやすくしたつもりだったが、いかがだったろうか。



年々意欲というものは減退してくるのか、大学四年というペーペーのくせに「ある程度の人生を送れたらそれで十分」という、なんとも覇気の無い目標を持っている人間が増えてくる。


人生をなめるのも甚だしすぎるわ、ばか者が!!!たかが20代前半のくせに!人生を知ったふりすんじゃねえ!!!




そして、こういう人間に限って、普通の人生ではなく、周りの人やつまらない情報に振り回される主体性の無い人生を送ることになる。


人生という大きなものに対して「最高の人生を送りたい!」という覇気がない人間はことごとく潰れていく。


これはさっきの高校野球の例とは違って、意識のレベルが細分化されていない。



「最高の人生を目指すか、目指さないか」の二択であると思う。


人生という大きなものに対して少しでも気の緩みがあってはならない。


常に最高を目指そうとしなければ、普通の人生も過ごせやしない。



あなたは二択のどちらを選ぶ??


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「昨年春―東京の中学からスカウトしてきた仙道が入学した。
入学早々にもかかわらず仙道のプレイは時には大黒柱・魚住をも圧倒するほどの破壊力を見せつけた。
そんな時なぜか決まってもう一人の男が魚住に挑みかかった。福田という新入生だ。かなうはずはない。新入生の中で一番下手だったからだ。だがいつも福田は仙道に対抗意識を持っていた…。まったく身の程知らずな奴だった。一番下手なくせに仙道を妙に意識しているんだからなあ。だがそのプレイには当時からどこかスケールの大きさを感じさせるものがあった」

これはかの有名なバスケ漫画「SLAMDUNK(スラムダンク)」の一場面である。ちなみに、スラムダンクの内容は桜木花道という男がバスケットと出会い、そのチーム「湘北高校バスケ部」と共に過ごした高校の夏のインターハイまでの勝負や練習風景などを描いた漫画である。
この漫画の素晴らしいところは湘北高校だけでなく、登場するチーム全てが魅力的に詳細に描かれているところである。同じ神奈川の強豪である陵南、海南、翔陽…。これらの高校のそれぞれに特徴があり、ドラマがあるのである。そのため、湘北高校以外の試合も描かれることも多い。その中で今回取り出したのは全国大会出場を掛けた陵南と海南の試合で、陵南の監督が一人で回想している場面である。

陵南には福田吉兆という、陵南バスケ部のオフェンスのキーマンがいる。冒頭の部分はこの福田吉兆の過去、入学当時を監督・田岡が思い出している場面である。他の強豪校から「猛烈な勢いで伸び続ける男」と恐れられた福田吉兆とは、どんな人間だったのだろうか。

陵南には既に仙道という大エースがいた。中学の時から東京で名を馳せ、高校バスケ界でも雑誌に「天才・仙道」と評されるほどの繊細かつダイナミックなプレイをする、本当に天才肌のプレイヤーだった。そんな彼はもちろん入部した時から先輩はごぼう抜き、一番の大黒柱でもあり、キャプテンだった魚住ですら時には打ち負かすほどで既に頭角を現していた。

誰もが「仙道は特別だ」と思って、特別視していた時にその特別視を許さない男が出てきた。それが福田吉兆である。

特別視することは「仙道には敵わない」と諦めることと同義である。そんな情けない態度は彼の本能が許さなかった。目の前で天才と呼ばれる人間が活躍しているのを見て、「あいつを越えたい」と何故思わないのか。越えたいと思わなければ意味が無い。そうとでも思っていたのだろう。

ちなみに、福田はこの当時最もバスケ歴が短く、最も実力が無かった。だが、彼にはそんなことは関係なかった。

彼は練習をする時はいつも「実力の無い今の自分」ではなく「仙道と張り合う未来の自分」を見据えていた。

そうして彼は仙道と同じかそれ以上の努力をして、ついに魚住・仙道・福田と「陵南のトップキーマン」になり、入学当時から描いていた仙道・福田の「二枚のエース」となったのである。その入学当時の福田の練習風景を見て田岡は思い出し笑いをしたのである。

絶対に自分がうまくならないと、成長しないと、許せないのだ。むしろその向上心は本能に近い。だから、目の前に天才が現れても貪欲に吸収し、絶対にそいつを超えるまで自分を鍛えつづけるのである。

実際に仙道を越えていない点はまだまだあるが、この伸びというものは恐ろしい。先ほど示したところをもう一度よく見てみよう。「福田は最も下手だった」のである。それが今やトップクラスにいる。福田はどんなことをしたのだろうか。最も下から最も上に。

そう。

彼は「仙道を特別視していた同級生」を全員ごぼう抜きしてしまったのである。ここが真に福田のすごいところである。

何故こんなにも同級生と差が付いてしまったのか。それは福田の目指しているところが「他の同級生よりもうまく」ではなく、「最もうまいと言われる仙道よりうまく」であり、その目標が誰よりも高かったからである。

目標が高ければ高いほど、努力のレベルも上がる。努力のレベルが上がれば出てくる結果もレベルが高くなる。こうして際限なく実力が上がっていくのである。

福田吉兆という男のバスケ人生は「抑えられない向上心」と「強大なものに立ち向かう勇気」と「何があっても目指す目標を下げない執着心」で構成されている。
私たちは今どこを目指しているだろうか。福田吉兆に劣らない三要素をしっかり持っているだろうか。もう一度見直してみよう。

漫画の世界ではあるが、夢を見続けて、絶え間ない修練によって夢を成し遂げた男がいたこと、その男がどんな気概を持って普段の練習に臨んだか。

それを忘れないようにしよう。目指すべき目標を高く持ち、粘り強くやる。こうして見ると、自分より圧倒的な実力を持つ人が目の前に現れたら、絶望どころか嬉しくならないか?

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「進しゃん…なんで伴ちゃんに東京行き進めたとですか?エライ目に逢うことくらいわかっとったでっしょ?」
「……。恵理ちゃん、男はね、初めっから男やなかよ。男に“なる”もんたい。うまかモン作る料理人ならなおさらばい。あいつは料理されないけん。火と水、オリーブ油と香辛料―それもとびっきり上質のヤツで!ものすごお悔しか、とか。あいつにだけは負けとうなか、とか。そげな気持ちがないとダメったい。」

小学館の漫画「バンビーノ」の一場面である。大学を途中で休学し、東京・六本木の人気イタリアン「バッカナーレ」で働き始めた主人公・伴省吾(=バンビ)。将来の夢はもちろん、「うまかモン作る料理人になること」。


地元の小さなイタリアンレストランで働いていた時はいっぱしの料理人だった伴だが、規模も料理人の質も全てのものが最高級のバッカナーレでは、いっぱしの料理人どころか足手まとい扱い。大量のオーダーをさばき、一分一秒を争って一日に何百もパスタを作ることなど伴は経験したことがなかったのだ。もつれる足。まとまらない思考。周りの料理人の仕事の速さ。それに比べて露になる自分の仕事の遅さ。その全てが相重なって焦り過ぎた伴は、自分の指を包丁で切ってしまい、「病院へ行け」と言われ戦線離脱させられる。


やりたいのに体が付いていかない。

頭が付いていかない。


調理場の喧騒から離れて、病院で心を落ち着けた時には、もう伴には気力が残っていなかった。

「もう福岡に帰ろうかな・・・・」


落胆したバンビが取った行動は恋人である恵理に電話をすることだった。だがいざ電話をしても伴は言葉に詰まってしまう。今弱音を吐こうとしている自分が情けなくて仕方なかったのだ。その沈黙を察した恵理は一言だけ優しい声をかける。

「・・・・・よかよ。帰ってきても」

そこまで言われたとき、自分がいかに情けないことをしていたかを伴は悟る。

「俺はなんて情けないことをしてるっちゃろか!弱音ば吐いて!このまま負けられん!福岡でも小さなイタリアンレストランでもない、この東京の最前線で絶対に生まれかわっちゃる!」

伴は走る。己を突き落とした戦場に再び戦士として舞い戻るために。

その電話の後に、恵理が「東京に行ってこい」と言った張本人であり、伴の師匠でもある進と問答するのが冒頭の場面である。

この場面では「目標を持つということはどういうことか」ということを考えさせられた。この言葉を解釈するなら「上を目指すなら、自分や他人との摩擦は避けられない」という意味だと私は考える。
 
誰しもうまくいかなかった経験などはあるだろうから、その時を思い出してみよう。

スポーツをやった。どうしてもレギュラーになれない。

勉強した。どうしてもアイツみたいに応用が利かない。

就職した。どうしてもあの先輩みたいに体と頭が付いていかない。

「上を見る」と、こんな風に今の自分の欠点や短所という、「最も見たくないもの」が露になる。そこから逃げ出してしまいそうになるだろう。

しかし、逆に考えてみれば、今きつい思いをしていたり、自分の欠点に辟易しているということは、「目標や夢をしっかり見定めている証拠」といえないだろうか。上を見ているからこその痛みなのだ。そう考えると今の自分の欠点は「夢への切符」だと言える。

目標が高ければ高いほど、目的地は遠いもの。けれど、もしあなたが毎日苦しんでいたり、悔しい思いをしているとしたら。

それは夢に対して向かっているだけということだから落ち着いてじっくり腰を据えよう。

毎日毎日進む速度は各駅停車という鈍行かもしれない。

その遅さにイライラするかもしれない。

だが、向かっているからには絶対たどり着く。

早い時期に成功したかどうかなんて関係ない。


成功するまでやり続けた人が成功者なのだから。





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「自信とは努力の集積の絶対値である」(英語教師)


この言葉は俺が予備校で浪人していたとき、取っていた英語の授業で教師が言った言葉だ。


このときはもう1月。


大体年が明けると、みんな浪人生は不安になってくる。



予備校生の間ではセンターが目前に迫り、二次試験も1ヶ月と少しで来るため、「努力してもあがいても無駄だ」という雰囲気が蔓延する。


そして、「今までやってきたけど、うまくいくんだろうか」と不安になる。



自分ではやってきたつもりだったけど、実際どうなのだろう。



そういえば、あそこにあんまり手をつけることができなかったな。



試験で結局いい結果を出せなかったな。






などなど、今までの自分の「情けないところ」「ダメだったところ」ばかり考えてしまうのである。





そんな気持ちを見抜いたのか、その英語教師は冒頭の言葉を発した。




「自信っていうのはな、今まで積み重ねてきた努力の絶対値なんだよ。

だから、今までやってきた努力を信じてやれよ。色々あったけど、1年間こうして頑張ってここにいるわけだろ?不安になってんじゃねーよ。


絶対値って意味がわかるか?絶対値の記号をつけると、プラスもマイナスも一緒になって関係なくなるだろ?


それと同じだよ。努力して成功したことはもちろん自信にもなるが、失敗したことだって努力のうちだ。無駄なことをやってしまったのも何か意味があるんだよ。そこも信じてやりな。


あとは、この意味をしっかり理解したら努力するしかねーだろ。いい悪い関係なく努力の絶対量こそが自信につながるんだ。


あとちょっと死ぬ気で努力して自信つけていこうぜ!!」





と言っていた。



“絶対値”といったところがミソだと思った。絶対値と言わない限り、今までの努力がいいもの(プラス)でないと、自信はつかないという風に解釈されて、逆に自信喪失する人間が出てくるからな。失敗や無駄(マイナス)な努力だって絶対量としてカウントされるんだぜ、と見事に今までの全員の努力を柔らかく賞賛する姿はカッコよかった。


まあかなりの人気講師だったからね。


自分も年をとるにつれて、何かを教える人間や立場になっていくだろうが、そのときはやはり、


〇っている知識量と技術がハイレベル

教えるのが丁寧

A蠎蠅粒悗岼媼韻鮃發瓩


の三拍子揃った教育者となりたいものだ。



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妙手と修練

せっぱつまった時の妙手は、その場の才覚ではめったにひねり出せるものではない。不断の修練による習慣性、いわば一種の本能が期せずしてそれを生み出すのである。



この言葉を聞くといつもアドリブやその場しのぎのアクロバティックな活動をしている自分に辟易してしまう。




「なんとかなるやろ」



なんとかならない確率が99%というのが現実である。



やはり、「勝負は準備の段階で決まっている」という言葉にも代表されるように、不断の準備、または練習・訓練がいざという時に必殺技なるものを生み出すのである。


普段の訓練、要するに下積みがないのにいい結果を出せることはほぼないし、もし結果が出てしまったらその人が気の毒である。そのアクロバティックに頼って普段からの積み重ねをしようとしなくなるからである。



「いざとなったら俺もやるさ」




確かにそれで出来る人間もいるかもしれないが、最高のものを作り出すことはできないだろう。



このブログに来る人は最強・最高の人間を目指していると信じているから、この言葉をしっかり頭に入れて、普段の努力を怠らないようにしよう。



・・・でも、俺はアクロバティックなことを結構しているかもしれない・・・・反省せねば・・・。



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百合「それよりどーだった?新曲。・・・・OKもらえた?」

ノブ「うん・・・・」


百合「きゃーー!おめでとー!よかったねー!」


ノブ「・・・でも俺的にはビミョーだよ。あざとくウケ狙いで書いちゃったし・・・はあ〜〜」


百合「・・・自己満足の創作なら誰にだって出来るよ。商業的に求められる曲が書ける方がプロとしてはよっぽどかっこいいと思うけど」


ノブ「・・・・!!」




少女マンガNANAの一場面である。


作曲を担当しているノブは、自分のやりたい音楽と違うものを事務所から求められていた。


自分が書きたいものを書いても没、没、没・・・・。


仕方ないので事務所が求めるものを書いたらあっさりOKをもらった。


しかし、心の中では葛藤している。

「・・・・俺が書きたかったのは、作りたかったのはこんな曲じゃない!」


その葛藤や悔しさを彼女である百合に吐き出す場面である。




その時に、百合がノブに言った言葉が冒頭のものなのだが、この百合の言葉はいい言葉だと思う。




仕事というものがどんなものなのかをよく理解している発言だと思う。



ノブと同じように一般の人間というものはどうしても「自分」を中心に置いて思考をめぐらせてしまうようだ。



「自分」のやりたいことは何なのか。


この仕事は「自分」のやりたかったことなのか。


「自分」が思うように仕事ができるためにはどうしたらよいか。




しかし、仕事とは「他人の問題解決」である。





ケーキ屋はなぜ存在しているのだろうか。


「ケーキ屋さんになりたい」と言う小さい子供に「何で?」と聞いてみると、



「ケーキをたくさん食べれるから」


と言うが、20歳を超えて社会人になっても同じ思考の人間がいるから驚きだ。




世の中のケーキ屋さんにそんな思いでやってる店があるだろうか。


否。


世のケーキ屋さんは「おいしいケーキを食べたい」という「他人の問題解決、欲求不満解消」を目的として、仕事を営んでいる。



ノブが最初に言ったように「俺のやりたい音楽をやりたい」と言うならば、場末のクラブかなんかで趣味程度にやるべきであって、間違っても“プロ”を目指すべきではない。


プロとはどんな人の要望にも自分の「技(ここで言うなら音楽)」で解決してあげることだからだ。



全国のみんなに音楽で癒しを与えるのが最上の目的であって、自分のやりたいことを最上の目的にするとは「ケーキ屋になりたい子供」と同じレベルということだ。



ヤスというシブイ男も出てくるのだが、こう言っている。



「それを承知でプロになったんだろ。書け



自分は果たして「大人」だろうか、「子供」だろうか。


社会に出ることを間近に控えている学生は特にこのことを考えてもらいたいものだ。



もちろん、おれ自身ももっと深く考えよう。



みなさんの仕事に光明が差すことを願って。




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「最近の人というのは“横の個性”を意識している人が多いかな。みなさんにはぜひ“縦の個性を持ってもらいたい」

(取材した書道の達人)



達人という言葉を聞いて、何か神々しい雰囲気を感じたり、じぶんもなりたい!と思う方は多くいるのではないだろうか。

達人とはひとつのことを文字通り極め尽くした人のことである。


職人と同じような響きがあるが、俺は似ているようで似ていない気がする。


職人とは何かひとつの“職”を高いレベルで完成させる人であって、「人生」を高いレベルで完成させているとまでは言えないような気がする。


職が高いレベルで行えても、そこから人生の本当の意義を見出し、それを自分の中にだけでとどめるのではなく、人に伝えたり、周りに影響を及ぼすことができるようにまでなってはじめて「達人」と呼べるのではないかと俺は考える。


つまり、人の成長過程は


初心者→中堅→職人→達人



となっているような気がしてならない。






達人に対する俺の主観的な定義はいいとして、今回の名言も奥深いものだ。





取材をしていく中で、達人が言った一言であった。


(メモ)
俺は今、企業取材サークルに入っている。

そのサークルではさまざまな企業や社会の第一線で働いている人たちに仕事の本質や楽しさを聞き出し、それを雑誌にして全国の学生に配布するという役目を負っている。





最近はどちらかというと、「人がやっていないことをやる」ということに目が行き過ぎている。


それもいいかもしれないが、やはり昔からあったりして伝統のあるものを一から学び、極めるまでやってみることが大切である。



そのひとつを極めるということに対して「視野が狭まるんじゃないか」などという言葉をよく言われるが、そうではない。


実際、何かを“極め尽くす”と、それが世の中のすべてのものにリンクすることがわかる。


人生の意義、本当に大切なものは何か、という壮大な質問に対して自分なりの答えを出すためにはまずは何かをやりとおすということができなくてはならない。









・・・・という意味であった。本当に奥深いものである。



何かを続けるということは難しいことである。できない自分に憤慨したり、怠惰との戦いであったり。

だが、その中で、自分ひいては人間というもの本質が見えてくるのではないか。


よくいろいろなことをとっかえひっかえやって、それを自慢にしている人がいるが、そんな人は絶対に何かひとつをずっと主体的意思を持ってやり続けている人にかなうことはない。


人間の本質や人生の意義を見出している人間にはどんな障害でも敵うことはない。



地道な継続とその過ごした時間が積み重なったものから形作られた人格を“縦の個性”と呼ぶ。


人がやったことのない分野をやって“横の個性”で一番になるというのもいいが、


自分は“誰よりも長く地道に努力をしつづけてきた”という個性で人格を作り上げたいものだ。


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「いきいきとした、天分豊かな精神を持った人が、実際的な意図を持ってごく身近なことに力を注ぐ場合こそ、この世における最もすぐれたものである」(ゲーテ)




全ての物事に主体的意思と情熱を持って向き合い、大事小事関係なく全力を注ぐその姿が最も美しいのだ、という意味だと俺は解釈する。


これは俺にとっても最も理想的な生き方だなと思う。


何かこの一回きりの人生の中で大きな目標を達成しようとすることも非常に大事である。


だが、その達成までの道のりを作り上げるのも、達成した後の人生を作り上げるのも全ては「日常生活の過ごし方、日常生活に対しての向き合い方」であり、「どれだけ毎日のことに真剣に楽しく情熱的に過ごそうとしているか、過ごそうと努力しているか」ということではないか、と俺は思う。


人生上の大きな目標を達成してきた、世で言う成功者や偉人たちの凄さは身近な、日常生活のごくありふれた場面で発揮されるし、また鍛えているのだと思う。



自分もそうだが、人間というのはどうしても小さいことをおろそかにしがちで、その上体力的かまたは精神的に負担がかかるものを「つまらない」とか「意味がない仕事」と言ってないがしろにしてしまう。


小さなことでもやりがいを見出し、情熱を傾けて真剣になれるような人間こそがいざ大きな仕事に立ち会ったときに達成できるのである。


逆におろそかにしてるような人間は「俺には無理だから」と、いざという時にしりごみしてしまうものである。



普段から、やっていること全てに全精力を傾けられるようにならねばなあ・・・・





頑張るぞっっ!!!!!




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