・・・最近。

自分の中に新たな葛藤が生まれている。内容的には過去にも似たようなものを経験したけど。

このブログの設立のきっかけにもなったKさんの「職の精神史」。その言葉をまた抜き出す。

 『学問は何のためにするのか。

     青少年は何のために学校に行くのか。答えは様々だろうが、その一つは、

   「他人の顔色を窺わずに、自分一人で責任を持って思想や意見を表明できる人間」

   になることだろう。』




『私は意見の性質に不満があるのではない。意見の作り方、持ち方に疑問を感じるのだ。どうして、その言葉に人生観をぶつけて、本気で言い切れないのか。』




この言葉を中心にして自分を見てみよう。

              自分の意見を持つ。

これについては自信がある。自分が出す答えには自信を持っている。もちろん完璧とは程遠いが、自信もない意見を出すより相当マシだ。それに意見をする資格を得るくらいは努力してきたつもりだ。
 こういうことを言うと「傲慢野郎」と思われるかもしれない。だが、もうひとつ傲慢を言わせてもらおう。

            間違ってても素直に認める。
これも自信がある。間違ってても素直に認めればいいわけだし、その一番難しい「素直に間違いを認める」こそサークルで学んできたものなのだ。思いっきり走って、思いっきり転んだなら、「くそーーっ!!」と悔しがって次の対抗策を謙虚に考えればいい。しかし、たまに俺のことを「傲慢で意見を曲げない奴」と思ってる輩がいるようだが、そんなことは俺と話し合ってから言え。話し合わずに何が「あいつは傲慢野郎」か。俺のエネルギーにビビってる弱者に悪口を言われる筋合いは無い。俺は頭から相手を否定したりすることはない。


 とは言うものの、俺にも悪いところは多々ある。怖がられるような言動は多いし、自分の体格や目つきが悪い印象を与えるということを失念して「本気で語れば、相手はわかってくれる」と思い込んでしまう時が多々あるから、そこは直そうと思う。

相手が自分のことをどう思ったかに怒る暇があったら、自分がそう見られる原因を自分の中に探す時間に使った方がよっぽど効率的だ。もう22なんだから自分が相手にどう思われるかは自分で責任を持たねばならない。悪い印象をもたれるならば、相手側の問題もあろうが、悪い印象を与える何らかの要因が自分にあると常に謙虚に考えていきたいものだ。愚者な俺は常に自分との戦いである。これまた楽し(^^)


・・・とまあ、自分の意見を持つことに関しては多少自信があるものの、実際それを

              「表明するか」

と言われたら、沈黙状態に陥る。

言いたいことがあっても言わない。

その原因は普通に臆病になったからではないかと思う。


中学や高校時代はどちらかと言うと「意見を表明する」と言うよりかは「言わずにはいらない」といったタイプだった。相手に憤ればそのまま言い放ち、

その時に比べれば、サークルで自分との戦いを少しながらでも続けてきた自分は、上の時代より幾分場を波立たせることはなくなった。


しかし、最近逆に「日和見主義」になったのではないかと感じる。憤ることはたくさんあるし、言いたいこともたくさんある。言いたいことを言える、そして言う資格のある人間になる、というこのブログの意義に反してないか?

でも、言わないとにかく「指摘はしない」。まるでパブロフの犬のようだ。




ここで、やっと今日の本題に入る。


             「本当の自分とは・・・」


日和見主義、事なかれ主義に陥っている原因はおそらく、目指す人間像の具体化の未熟さとベクトルの違い、この二つだと思う。



目指す人間像は「天衣無縫で豪放磊落」



天衣無縫(てんいむほう)とは

「故事成語。飾り気が無く、技巧が凝らした後が見えないよう、美しく出来上がっている詩文などを褒める言葉。また、そういった飾り気のない、天真爛漫な性格の人を指す言葉。」


豪放磊落 (ごうほうらいらく)とは

おおらかな性格で、図太く、些細なことにはこだわらないこと。「豪放」も「磊落」も、快活で心が広く、小さなことにこだわらないさまをいう。

【例】
誰からも好かれている豪放落楽な人。



これは昔っから惚れている俺の人間像である。高校時代からこういう人間に憧れてきた。今も変わらない。最近は忘れてたけど(爆

だが、実際最近はどうであったか。上に書いてあった通り、最近は忘れていた。なぜか。

それは新たな人間像に注目してたからである。それは単純に親友のTである。彼は人間関係構築力という点で俺にとって神のような存在である。だから、ひたすら真似してきた部分がある。しかし、いいところを吸収しようと思っているだけにとどまっているだろうか?

同化しようとしてないか?


実際、Kさんの教えをそのまま体現しているのはTであろう。だから、Tと行動をともにする俺自身もかなり見習ってきた。

だが最近、追いかける人間像が違う気を履き違えている気がする。もちろん、Tの性格がどうこうとか言う話ではなく、俺自身の問題で、


もしかしたら、そろそろ自分の道を歩んでいく分岐点に来ているのかもしれない。


間違わないでほしいが、Kさんの教えは人類普遍の法則だと思ってるので批判などするつもりは一切無く、これからもぜひ学んでいきたいと思っている。

だが、それを学んだ上でどういう人生を歩むか、その法則をどう体現していくかは個々人の色が出るし、抑え込むべきではない。


Tは「お前はすごい」とTと同列として認めてくれていた。俺も同列であったつもりだった。


が、実際はまだまだ「こいつにはかなわない」と思っていたのかもしれない。



最近どうしてこういう心情の変化が起きてきたのかを時系列で事実だけで考えてみると、「就活」が大きなキーワードになるのかもしれないことに気づいた。


自分の思いを伝え、自分という人間が評価されたことで大きな自信を得たのを節目とし、Tにはできないことがあって俺にはできることがあることに気づいた。その逆もしかり。


つまりは、やっと自分自身をTと同列と認めたのではないか。だからこそ、Tと違うタイプの人間であることの必要性と確信も感じたのではないか。(考えることはいっしょだけどね 。。。中身はいっしょで違う色って感じか 笑)

神様はまったく同じ人間なんか作らない。同じもの二つなら、無駄だからだ。


Tと違う色を出していくのを恐れていたのだろうか。

同列になった今こそTとの人間のタイプの違いを喜ぶべきではないのか。


これから目指す理想の人間像を早く確立せねばならない。Tと一緒にいる間に確立せねばもうその違いをハッキリ理解できることがなくなって本当の自分自身を見つけることができなくなってしまうかもしれない。


ということで、いろいろもがいてみまーす!!


なんかまとまりのつかない、整理のつかない日記だな(汗)