確実に自己練磨を続けてきた人間には一本の軸が形成され、文字通り思考や行動が「その人らしく」なり、「金太郎飴」のごとくなる。

その一本の軸は大抵その人を表す単語であらわせる。勇気や根性、向上心。。。キャッチフレーズとも言う。


例えば、

親友のTは“感謝の鬼”    だろう。


じゃあ、俺は・・・?


自己紹介がてら言っておきたい。俺は・・・・・・


                
                     ―“憤怒の権化、M”―


そう。俺の根本にある感情はいつだって憤怒だった。

納得いかない。

むかつく。

許さない。


青春時代は世の中の全てのことを憤怒の表現で満たした。そんな感情を持っていると良くないことはもちろんあったが、俺にとって憤怒という感情はなくてはならないものだった。

それは闘争心に変わり、成長欲に昇華し、そして自分の大切なものを守りたい、いや守らねばならないという熱い使命感に姿を変えたから。

青春時代はその憤怒という感情を他人や環境に向けていた。それがいけなかった。自己嫌悪に陥ることもしばしばあった。

しかし、大学に入ってしばらくして入部したサークルで「謙虚」という言葉を学んだ。

完膚なきまでに謙虚の大切さを説得された。反論のしようもなかったし、それを説いている人自身に文句のつけようがなかった。単純だが、非常に難しい「謙虚な心」。ひたすら実践してきた。根本から謙虚になるにはまだ到達してないが、傲慢と見られることはかなり少なくなった。


そして、今。

今まで出会ったこと無かった問題が浮上している。


それは「憤怒の復活」。


謙虚な心を体得する上ではまず落ち着いた心で、人を非難したりはご法度。

体得するためにがむしゃらに自分の憤怒の感情を押さえ込んできた。憤怒は他人非難の発生要因にしかならないと思っていたから。

それが最近人を注意または叱らなければならない問題にブチ当たった。


今日会った友人は「お前の憤怒は正しい。お前だから憤ることが許される」と言ってくれた。

それは今までの努力に対して評価してくれているからだろう。とてもありがたいことだ・・・・。


しかし、長年抑え込んできた憤怒は簡単に取り戻せない。


出したら、人をまた傷つけてしまうのではないか。


それにおびえるようになっってしまったのかもしれない。